由 来 文治元年(1185年)下野の住人那須余一宗隆は屋島の合戦で、平家の小舟に立てた日の丸の扇を打ち落さんと目を閉じ、「南無八幡大菩薩別けても日光二荒山大神願わくば其の扇を射させ給え、是れを射損ずるものなれば弓を切折り自害して人に再び面を向ふべからず、今一度本國へ帰えさんと思召さば此の矢はずさせ給うな」と心中深く祈念して、眼を見開き鏑矢を取り満月に引いてひょうと放ち、扇の要一寸ばかりおいてひいふうとばかりに射切った。
此の古事にならい扇の的弓道大会が日光二荒山神社で開催されて、本年で第五十三回となる。
此の大会は参加者は関東一円より約1,500人であり、一日の大会としては全国一の参加者を要する大会です。 第51回扇の的弓道大会の参加者数は、学生1,155名・一般680名、合計1,835名でした。 |